頭のなかの世界を、他人の感覚へ訴えかけるものに変えるという作業は、その規模が何であれアートの一つなのだとおもう。
数年前にネイティブアメリカン系の新書で見つけたこの言葉
「祈りを形にすると、アートになる」
その方程式に、このアウトプットの作業を仮に当てはめておいて考えると
祈りとは、人が、こころのなかのものを他人とシェアするために一生懸命に生んだ言葉であり、音楽であり、美術品であるのかもしれない。
私は、しばしば自分の心の具合の曖昧さに驚くことがります。
おこっているのだとか、喜んでいるのかとか、なにかを恋しく思っているのだとか、そういう気持ちをmixed up feelingというような表現で終わらせてしまったら、そこで終わってしまう。けれど感情や感覚といった原石のようなものはしっかりと磨いてやらないと、そのたしかな姿を現してこないらしいのだ。
しかし、その原石の状態のこころというのは、あまりにも曖昧で・・・
もしくは、「あんたは言葉をしらないね」という状況なだけなのか、しぼりだそうとしているうちに、はたして自分は怒っているのか、それとも疲れているのか、ただ単に眠たいだけなのか、わからなくなってくるのです。
それと同様に、何をしたいのか、わからない、ということもある。
ゆっくりと辛抱強く、見つめること。
そして、つぎに何を見るんでしょうか。
目の前の、見慣れた、ただ単の日常光景とおもって油断していると、もったいないことになる、かもしれない。
それはきっと、バラナシの町の小道を占領している牛の糞さえいとおしく思えてしまう瞬間かもしれないような、アバタモ・エクボ。
すべてを解決してくれるのは、時間ではなくて、
自分のこころだよね。
時間は、もちろん、助けになってくれる。
終わりがあるということは、つらくてつらくて仕方がないけれど、この命も、みんなの命もいつか終わるということは、
そのイメージは、私の心を、バリの奥地へ、
マレーシアの夜へ、ラオスの村へ・・・いままでに訪れたいろいろなところに、そこですれちがった人たちのもとへ、連れて行きます。
ゆっくりと。
YOU SHOULD STILL REMEMBER THINGS THAT HAD NOT BEEN TAKEN PHOTOS NOR VIDEOS.
IT IS, WONDERFUL, ISN'T IT?
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