2013年12月27日金曜日

サヌールのおやじ




私や、私たちが神様を信じているか、特定の宗教をもっているかにかかわらず、信仰心をもち、その瞳をもってものを見て、その心でものを感じるひとたちがこの世界には確かにいるということ。
そして祈られているということ。 

戦争の原因になっているから、宗教は、悪いものだ。と決め付ける前に、その本質を見てみようとしたとき・・・
私は、ローカルと呼ばれるひとたちの生活を見ないわけにはいかないと思っている。
新聞の一面に大々的に広告されたニュースの伝えない、
地に息づいているローカルの感覚がある。

 


東南アジアに恵みを運ぶ、メコン川。ラオスとタイを隔てる国境の代わりにもなるそれは、この2つの国を大きく隔て、一方に富める都市を浮かび上がらせ、いっぽうに時間の留まる国を思わせる。
仕事を求めて川を違法に越える人々のすがたは、
マレーシアとシンガポール間のそれとは、少し違う。 

アザーンの美しいマレーシア、ジョホールの人々は、バイクや車でシンガポールに出勤する。金銭の価値が大きく違うためにおこる毎日の大移動である。マレーシアに戻れば、その収入で、家族にいい思いをさせられる。

毎朝炊かれる香の香りの美しい、雨季の青々としたバリの内陸、観光客でごった返すウブドのマーケットで、
白い色のチャンパカの花をそっと私の手に置いた、おばあちゃんがいる。
雨宿りに立ち寄ったバスチケット屋、店番していたジャワ人の学生が、差し出してくれたパンとコーヒー。 

そこにいたのはガネーシャだったのかブラフマンだったのか、
祭られていたのは仏陀だったのか、それともムハンマドかキリストか、
おそらく、そういった沢山の信仰される神様たちが同じ空気中に住んでいて、ひとびとは同じ空気をすって普通に生活している。






私が勝手に「サヌールのおやじ」と呼んでいる人がいる。

そのおやじはバリ島のサヌールという海岸で客引きをしているのだが・・・
ある日、ビーチを散歩していた私はそのおやじに話しかけられた。普段は無視する客引きだったが、今日はバスの待ち時間にも余裕があるしで、タバコをふかしながら世間話をしていた。
「彼氏いるの?」

この手の質問にうんざりしていたので「傷心旅行中」とうそぶいた。が、まあ実際そんなこともあった。
過去1年半付き合っていたオーストラリア人が末期癌になり余命宣告をうけるという事件があった。結局この話は結果があまりにもあやふやになり未解決迷宮入り事件であるが・・・


おやじ真剣になってくれる。


「あんたはいいひとそうだから大丈夫。神様が見守っててくれるから大丈夫。
でも自分はだめだな。たまにうそつくから、いい人間じゃないんだ。
自分たちはカルマを信じる。それは、悪いことしたら自分にじゃなくて次の世代や周りに悪いことが帰ってくるってことだ。
でも自分は今日もウソついて、今日の海は綺麗だとか、シュノーケルに最高の日だとか言った。
でも本当は大雨の後で、海は汚いんだよ。」
生活のためだもんね、みんなわかってると思うよ・・・
「旅、楽しみなさい。あんたなら楽しむよ、いい子だから・・・!」

このサヌールのおやじが、うっとおしい客引きから、いい人にかわった瞬間である。
以降の旅の道中でもこの感覚を与えてくれたサヌールのおやじの教訓をしばしば思い出した。
こういう人間がおおいとおもう。
うわべだけや一見だけでは理解できない、見切れない一面。
そして見落としてきているパートがいるだろうということ。









今のようにどこか一箇所に腰を長くおろしているときには特に、
あのサヌールの海岸でおやじは今日は何を思っているだろうかとか、
はたまた、ヒマラヤ山脈のむこうがわのチベットの人々をおもってみたり、
あのラオスの奥地の村人たちや、
タイのビーチの物売りのパパや屋台のママを思うのです。



ふと空をみあげたとき、ただよう風船のように、かれらの祈りもただよっているんじゃないだろうか・・・





2013年12月26日木曜日

頭の中と外と、こことここより遠いところ

文字のひとつひとつ、音楽の一音一音、それらを組み立てるという作業は、なんと繊細なんだろう。
頭のなかの世界を、他人の感覚へ訴えかけるものに変えるという作業は、その規模が何であれアートの一つなのだとおもう。

数年前にネイティブアメリカン系の新書で見つけたこの言葉
「祈りを形にすると、アートになる」

その方程式に、このアウトプットの作業を仮に当てはめておいて考えると
祈りとは、人が、こころのなかのものを他人とシェアするために一生懸命に生んだ言葉であり、音楽であり、美術品であるのかもしれない。


私は、しばしば自分の心の具合の曖昧さに驚くことがります。
おこっているのだとか、喜んでいるのかとか、なにかを恋しく思っているのだとか、そういう気持ちをmixed up feelingというような表現で終わらせてしまったら、そこで終わってしまう。けれど感情や感覚といった原石のようなものはしっかりと磨いてやらないと、そのたしかな姿を現してこないらしいのだ。
しかし、その原石の状態のこころというのは、あまりにも曖昧で・・・
もしくは、「あんたは言葉をしらないね」という状況なだけなのか、しぼりだそうとしているうちに、はたして自分は怒っているのか、それとも疲れているのか、ただ単に眠たいだけなのか、わからなくなってくるのです。
それと同様に、何をしたいのか、わからない、ということもある。

ゆっくりと辛抱強く、見つめること。

表現と祈りと、見つめること。

そして、つぎに何を見るんでしょうか。
目の前の、見慣れた、ただ単の日常光景とおもって油断していると、もったいないことになる、かもしれない。

それはきっと、バラナシの町の小道を占領している牛の糞さえいとおしく思えてしまう瞬間かもしれないような、アバタモ・エクボ。 

すべてを解決してくれるのは、時間ではなくて、
自分のこころだよね。
時間は、もちろん、助けになってくれる。
終わりがあるということは、つらくてつらくて仕方がないけれど、この命も、みんなの命もいつか終わるということは、
そのイメージは、私の心を、バリの奥地へ、
マレーシアの夜へ、ラオスの村へ・・・いままでに訪れたいろいろなところに、そこですれちがった人たちのもとへ、連れて行きます。
ゆっくりと。



YOU SHOULD STILL REMEMBER THINGS THAT HAD NOT BEEN TAKEN PHOTOS NOR VIDEOS. 
LET US THINK OF THEM SOMETIMES, THAT WERE LIVING THE LIVES FAR FAR AWAY FROM WHERE WE ARE. BUT CERTAINLY THEY ARE, ( AND THEY COULD BE YOUR FRIENDS) LIVING THE SAME MOMENT WE HAVE NOW.WITH THE SAME EMOTION WE HAVE NOW.

IT IS, WONDERFUL, ISN'T IT?





2013年8月26日月曜日

SHE GOT A TICKET TO RIDE AGAIN

今日の夕方、久しぶりのグレイハウンドバスに乗って、カルガリーに向かいます。

カルガリーというか、今回はどこに向かうかよりも、また短い道のりながらもバックパックを背負って歩く、というのがうれしい。

靴下を履いて仕事場に向かう道中ではなくて、征服を詰めて背負い込むカバンではなくて。




The days are getting old  like human being is.
the travel its self is also getting old then,
it goes to somewhere where I can not see.  From time to time, it come back to you, and then gone again spontaneously.
It may be time to catch my old days again. my old days which becoming my old memories.
wake them up, and then let me feel free from my feelings.

People I met on the way of traveling, with some pics and no pics.
I would like to now feel the people I did not take any pictures of them....
I would like to know if I still can see their faces,
if I still can smell the air of villages, and of the rain season,
if I still can hear the sound of skies, and of footsteps.


I have just started enjoying today. 








今一度、とつぶやいてみても、なにか特別なことを、というわけでもなくて。
今を過ごしながら、忘れたくない感情の一部になりつつある旅の部分部分を自分の身に落ち着けようとしているのかもしれない。